今日は以前の続きの万葉集です。

3首目の歌と4首目の歌の紹介。

4首目は反歌になっているので一緒の記事にしたいと思います。







   天皇の宇智(うち)の野に遊猟(みかり)したまふ時、中皇命(なかつすめらみこと)、間人連
   老(はしひとのむらじおゆ)をして献(たてまつ)らしめたまふ歌


やすみしし  わが大王(おほきみ)の  朝(あした)には  とり撫でたまひ  夕(ゆうべ)には  い寄り立たしし  御執(みと)らしの  梓の弓の  中弭(なかはず)の  音すなり
朝狩(あさかり)に  今立たすらし  夕狩(ゆうかり)に  今立たすらし   御執らしの
梓の弓の  弭の  音すなり



(意味)
舒明天皇が宇智の野で狩りをなさった時に、宝皇后が間人連老に奉らせた歌

わが天皇が朝には手にとって撫でなさり、夕べにはそばに寄ってお立ちになった、ご愛用の梓弓の弦打(つるうち)の音が聞こえることだ。
朝狩りに今お立ちになるに違いない。夕狩りに今お立ちになるに違いない。
ご愛用の梓弓の弦打の音が聞こえることだ。



(解釈)
この歌は、舒明天皇九年三月の記述が基になっており、上毛野君形名を将軍にしたが敵を前にして仲間の軍勢はみな逃げてしまって途方にくれた。
上毛野君は夜になって垣根を越えて逃げようとしたが、その妻が思いとどまらせて数十人の女に弓の弦をブンブン鳴らさせたところ、敵は軍勢が多く残っていると思い込んで退いた、という記述からきている。



(作者)
宝皇后~舒明天皇の妻。推古天皇の姪っ子の娘。
    後に皇極天皇となる。別名、中皇命。



(人物)
舒明天皇~34代天皇。

間人連老~中臣間人連老のことであろうと思われる。あるいは中皇命。あるいは間人皇女。

間人皇女)~中大兄皇子の娘。



歌中の大王とは夫である舒明天皇のことを指している。




この長歌は舒明天皇が宇智の野で猟りをされていたとき、中皇女の間人老をして献上した歌ということになっている。
つまり中皇女の間人老はこの猟りの場所にはいなくて、他の場所(飛鳥の宮?)から宇智で猟りをする天皇のことを詠ったもの。

おそらくは猟りに出た天皇の無事を祈っての言霊としての祈りの歌なのでしょう。
この当時、留守を護る女性は家を離れて旅をする男性の身を案じ、一心に旅の無事を祈る歌を詠んだという。
その歌が言霊となって男性の身を護ってくれると信じて…。
この歌も、不吉を打ち払うかのように天皇の猟りの勇ましい姿が詠われている。
実際にこんな勇ましい猟りであることの実現を祈っての歌という意味があるのだろう。


中皇女、間人老については同じ人物のことを指すのか、または二人の人物なのかなどはっきりとしたことは分かっていない。
中皇命とは次の天皇の中継ぎとして立つ皇女という意味で皇后か皇女のことになり、ひとりの人物と解釈するなら中大兄皇子の娘の間人皇女あたりかとも言われている。

ちなみに、宇智の大野とは、現在の奈良県御所市にあるJR北宇智駅の西に広がる一帯で、飛鳥からはかなり離れた場所にある。



続いて、この歌の反歌。



   反歌

たまきはる  宇智の大野に  馬並(な)めて  朝踏ますらむ  その草深野(ふかの)



(意味)
宇智の広々とした野に、馬を並べて朝の野をお踏みになっておられるであろう。
あの草深い野を。



(作者)
おそらく前の3首の長歌と同じく、中皇女の間人老。



(用語)
「たまきわる」は宇智にかかる枕詞で「魂の極まる命(うち)」といった意味。


宇智の野を馬を駆って天皇は朝の草深い野を踏んで居られるだろうと、現代語訳してしまっては単純な一首。
その意味を思い浮かべながら、もとの歌を何度も口ずさんでみると、この歌に込められた深い「想いを感じ取ることができるかもしれない。
 反歌とはこのように長歌とおなじ意味の内容を繰り返すことで、その言霊としての効力をさらに深めようとしたものだったのかも知れませんね。

この歌の歌碑が、奈良県御所市の荒坂峠にある。





本日は返歌をセットで。
ではまた次回^^










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 2020_07_15



今日は大好きな万葉集についての記事です。
前回の続きで、2首目の歌の紹介。






  高市岡本宮(たけのをかもとのみや)に天の下知らしめしし天皇の代

                 息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)


   天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌

二  大和には  群山(むらやま)あれど  とりよろふ  天(あめ)の香具山  登り立ち
   国見をすれば  国原は  煙立ち立つ  海原は  鴎立ち立つ  うまし国ぞ
   あきつ島  大和の国は




(意味)
高市岡本宮・・・舒明天皇の皇居。奈良県高市郡明日香村岡の辺りとされる。
天皇、香具山に登りて望国したまふ時の御製歌・・・舒明天皇が香具山に登って国見をなさった時のお歌。

大和の国には、たくさんの山々があるが、天津神のよりしろである天の香具山、その山に登り立って国見をすると、広々とした平原には、かまどの煙があちこちから立ち昇っている。
広々とした水面には、鴎が飛び交っている。そうした豊かな平和な国であれ、この大和の国は。


※舒明天皇・・・第34代天皇。別名、息長足日広額天皇。






一見すると単なる香具山からの風景を見て詠んだ風景歌のようにも取れるが、実はもっと深い呪術的な意味があるのだといわれています。
つまり、その国を見渡しながら「大和の国はすばらしい国である」と詠うことによって言霊の力で大自然の神々に語り掛け、実際にそのような国になるように祈っているわけです。

本来、天皇とはこのように歌を通じて神々と交信できる力を与えられたもののことを指していたのだという。
つまり、天皇=神ではなかった。

今よりも「言霊」の威力に重きを置いていた時代。
天皇が発する言の葉は最も強い効力があると信じられていたのだろう。



今日はこの辺で。
次回また^^









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 2020_05_21



古典の中で一番好きなのが、万葉集。
時代背景や人物を読み解きながら学んでいくと、色んな発見があったり、奥の深さに驚いたり。
なによりも、昔ながらの美しい言葉や表現の素晴らしさを感じられる。
そんな時はああ、日本人として生まれてきて良かった~と、誇りに思える瞬間を味わえる。
沢山ある万葉集の歌。まさに「よろず」。
学びながら紹介もしていこうと思います。学生時代を思い出しながら(笑)
色んな資料から^^




万葉集とは、奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集のこと。
歌はすべて漢字で記されており、全20巻4500首以上の和歌が収められている。
3つのジャンルに分かれていて、「雑歌(ぞうか)」宴や旅行での歌、「相聞歌(そうもんか)」男女の恋の歌、「挽歌(ばんか)」人の死に関する歌から成り立っている。
和歌の表現技法には、枕詞、序詞、反復対句などが用いられている。

天皇、貴族から下級官人、防人(防人の歌)、大道芸人、農民、東国民謡(東歌)など、さまざまな身分人々が詠んだ歌が収められており、作者不詳の和歌も2100首以上ある。
7世紀前半から759年までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から780年頃にかけてとみられ、編纂には大伴家持が何らかの形で関わったとされる。
原本は存在せず、現存する最古の写本11世紀後半ごろの桂本万葉集(巻4の一部のみ)、完本では鎌倉時代後期と推定される西本願寺本万葉集が最も古いといわれる。

(特徴)
  • 雑歌(ぞうか)・・・「くさぐさのうた」の意で、相聞歌・挽歌以外の歌が収められている。公の性質を持った宮廷関係の歌、旅で詠んだ歌、自然や四季をめでた歌などである。
  • 相聞歌(そうもんか)・・・「相聞」は、消息を通じて問い交わすことで、主として男女の恋を詠みあう歌(人を愛する歌)である。
  • 挽歌(ばんか)・・・棺を曳く時の歌。死者を悼み、哀傷する歌(人の死を悼む歌)である。


歌体は、短歌長歌施頭歌の三種に区別されている。

  • 短歌は、五七五七七の五句からなるもの。
  • 長歌は、十数句から二十数句までのものが普通であり、五七を長く続け、最後をとくに五七七という形式で結ぶもの。長歌の後に、別に、一首か数首添える短歌は反歌と呼ばれている。
  • 旋頭歌は、短長の一回の組み合わせに長一句を添えた形を片歌といい、この片歌の形式を二回繰り返した形である。頭三句と同じ形を尾三句で繰り返すことから旋頭歌とついたといわれる。


歌を作った時期により4期に分けられる。

  • 第1期は、舒明天皇即位(629)から壬申の乱672)までで、皇室の行事や出来事に密着した歌が多い。代表的な歌人としては額田王がよく知られている。ほかに舒明天皇・天智天皇・有間皇子・鏡王女藤原鎌足らの歌もある。
  • 第2期は、遷都710)までで、代表は、柿本人麻呂高市黒人長意貴麻呂である。他には天武天皇・持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子などである。
  • 第3期は、733年までで、個性的な歌が生み出された時期である。代表的歌人は、自然の風景を描き出すような叙景歌に優れた山部赤人、風流で叙情にあふれる長歌を詠んだ大伴旅人、人生の苦悩と下層階級への暖かいまなざしをそそいだ山上憶良、伝説のなかに本来の姿を見出す高橋虫麻呂、女性の哀感を歌にした坂上郎女などである。
  • 第4期は、759年までで、代表歌人は大伴家持笠郎女・大伴坂上郎女・橘諸兄・中臣宅守・狭野弟上娘子・湯原王などである。


万葉集は全巻で20巻であるが、その巻頭の歌が雄略天皇の歌で始まり、大伴家持の歌で締めくくられている。奈良時代の人々においても、雄略天皇が特別な天皇として意識されていたことを示しているといえる。

では、万葉集の成立や特徴はこのくらいにして、いよいよ歌を紐解いてみよう。




 万葉集巻第一・雑歌


泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に天(あめ)の下(した)知らしめしし天皇(すめらみこと)の代(みよ)


   大泊瀬稚武天皇(おほはつせわかたけのすめらみこと)


   天皇の御製歌(おほみうた)

 一

籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この丘に 菜摘(なつ)ます子 家告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそ 座(ま)せ われこそは 告らめ家をも名をも


(意味)

泊瀬朝倉宮・・・雄略天皇の皇居。奈良県桜井市朝倉・脇本のあたり。

泊瀬稚武天皇・・・雄略天皇のこと。

掘串・・・土を掘るためのヘラ。愛知・長野・静岡の山間部の方言として残っている。

そらみつ・・・大和の枕詞。


(訳)

雄略天皇のお歌

かごよ、神聖なかごを持ち、掘串よ、神聖な掘串を持って、この丘で若菜をお摘みのおとめよ。あなたの家をおっしゃい。名前をおっしゃい。この大和の国は、すべて私が領有している。一面に私が治めているのだ。この私からまず名を告げよう。私の家も名前も。


(解釈)

当時は 男もだが、が特に女性の名前は 家族以外に知られることはまずなかったと言われている。 名前基本的には秘密だった。

だから自らを名乗り、女性の名前を聞くということは、普通のことではなく 、まさしく プロポーズそのもの 。

そして 女性が それに応えて 名前を言えば 婚姻成立。


それを踏まえると本当に雄略天皇が作った歌なのか、ちょっと疑わしい気持ちになる。


〇雄略天皇・・・第21代天皇。ここでは詳細を省きます。



1番目の歌は雄略天皇。

では次回は2番目の歌を載せます^^









 2020_04_02




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