好きな作家は太宰治です。

前回は太宰の恋と革命論を書いてみました。
今日は批判について書こうと思います。






太宰の文学は、青年たちに人気がある。
前回はその点を書いてみた。彼の心の構造が青年たちのそれと共通する部分が多くあるのではないかということも人気のあるひとつの理由であろうと推測できる。

だが、彼の文学は賛同する声とは逆に批判された文学でもあった。
今日はその点を書いてみようと思う。

例えば伊藤整。
昭和26年に発表された「太宰治論」には、当時の日本社会のうちにある民衆の意識の在り方に対して、次のように批判している。

日本の民衆の生活は、いまだ「社会的な論理の通った調和を前提とする市民意識に貫かれてはいず、物質的条件の貧困の一般化とともになお封建制の組織と発想によって」支配されている。
そのために、民衆は「ともすれば、その古い不合理な社会から逃避し、または死ぬことによって自己を救う衝動を強く持っている」と。

そして、太宰の文学を批判していう。
太宰の文学、とりわけ晩年の彼の諸作品の発想は、そうした「生活逃避者や怠惰な無思考者たちによって、愛好される傾きがある。」
それは、文字通り太宰の文学がそうした彼らと同じ発想に貫かれているからにほかならない。つまり、太宰の文学は彼らの逃避したい心情にコミットし、そうして逃避を助長することに役立つものでしかないのだ、と。

伊藤は、「若し日本の社会に近代なるものが実質的に存在し始めているとすれば、我々は強い苦悩や、他との不調和や、戦いなどを経ても、論理的に調和性のある社会環境を作り、自らその方向を取りながら生きることを考えねばならない」という当時の進歩主義の立場にたって、そうして安易に「古い不合理な社会」からの逃避を考えるのではなく、正しく市民社会建設へとみなが一丸となって向かわねばならないのだという、その公式論によって、太宰の文学を否定した。

もちろん、彼ら進歩主義者にとっては、「生活逃避者や怠惰な無思考者たち」、そしてそうした彼らに加担するかのような太宰の文学は批判されるべき存在でしかないだろう。

でも、ここで少し考えてみたい。

例えば、伊藤によって「生活逃避者や怠惰な無思考者たち」と呼ばれた人々とは、いわゆる青年たちの心の構造と同じものを実は自らの心の内に有していた人々を指しているのではないだろうか。
つまり、彼らもまた社会からの「自閉性」と「疎外感覚」の所有者でこそあったのではないか。
いつの時代でも社会に馴染めないという人間は多く存在する。
さらに現代は、ネット社会ともいえる現象があり、当時に比べたら孤立感が上がっているのではないかという危惧感さえある。
その内にこもりがちの自閉が病的に見えてしまう私からしたら、幾分まともな感覚からきている社会現象のひとつであったように感じてしまう。まあ、一種の錯覚なのだろうが。

伊藤整の言い分も十分に理解はできる。まさに「大人」の意見だ。
いつまでも勉強もせずにダラダラとしている子供をなんとか自立させようと説教する教師か親のようなしごく真っ当な意見だ。

外界がよく見える場所にいて、社会との有機的連関が信じられているのだったら、彼らがそこからの逃避者となったり、あるいは自殺をしてまで逃避を貫徹する必要はない。
彼らとは、時代や社会によって「自閉性」や「疎外感覚」を所有するところにまで、そして逃避せざるをえぬところにまで追い詰められた存在でこそある。
もちろん総てをその時代のせいとは言わない。個々の性格によるものであることは間違いないからだ。
でも、その性格の一部を社会が作り上げているのもまた事実であり、自閉的に追い込んでいるのも真実だ。ただそのことだけを弾圧するのは正義と呼べるのか?
そこにはそうならざるを得なかった個々の生活や環境があるわけで、一概に自閉的、怠惰な者たちを糾弾するのはいささか乱暴な論だろう。

当時の進歩主義的な「大人」の眼には、そうした彼らの姿が単に「生活逃避者や怠惰な無思考者たち」というマイナーなイメージのものとしてしか見えなかったのだろう。
もちろん、それは彼らが¥「恋と革命」というような何らかの理想主義を自らのうちに有していようといないとに関わらずである。

否定するのは簡単だ。
別に私はだからといって大人になりきれない「子供」に対して弁護するつもりはないけれど。
実際いい歳して私だって、たいがいな夢見がちな性格しているし。
しかし、だからこそ理想論だけでは納得はできない。

伊藤のこの進歩主義的思考の当否はといえば、彼の社会批判については肯定することができるとしても、市民社会建設にたくす彼の言葉、「我々は強い苦悩や、他との不調和や、戦いなどを経ても、論理的に調和性のある社会環境を作り、自らその方向を取りながら生きることを考えねばならない」といったような言葉は、単なる綺麗ごとを述べた空語にしかすぎない。
なぜなら、それは、社会の矛盾を一身に背負うことによって、逃避者や自殺者とならざるをえなかった者の、内面のリアリティーといったものを、まったく無視したところで発せられた言葉でしかないからである。
過程があっての結果であり、それを無視した言葉には心情がないように思えるからだ。

伊藤が太宰の文学を否定的にしか評価しえないのも、「古い不合理な社会から逃避」しようとするこうした人たちを「生活逃避者や怠惰な無思考者たち」としてとしてしか見れないのも、そうして非現実的空語をもって安易に、そうした空語通りにはならない現実を裁断しようとする愚から生じたことであると思われる。
伊藤のそれも、またひとつの幻影としての理想主義に過ぎないといえるだろう。
しかし、青年たちの「恋と革命」といった魂の底からの叫びを伴った理想主義と違うところは、伊藤のそれには「自閉性」も「疎外感覚」も伴ってはいないことである。
自らと社会との有機的連関が彼には信じられているのだ。
つまり、伊藤はまごうことなき「大人」の世界の住人なのだ。

理想主義とは、「自閉性」と「疎外感覚」のないところには生まれえない。
つまり、伊藤のそれは実は「偽」理想主義に過ぎない。
伊藤は、当時すでに幻想として日本社会の内に普遍化されていた進歩主義なるものに、単に基づいて発言しているに過ぎない。
そして、その進歩主義こそが当時の「現実」だったわけである。
言葉を換えるなら、「正義」だったのである。

だから、この時伊藤は、青年たちの理想主義とは違い自分自身の存在の苦悩の中で編み出されたのではない、すでに当時、いわゆる市民権を与えられていた」言葉をもって現実社会を裁断し、太宰や現実から逃避せざるをえなくなった人々を批判したのである。
伊藤の言葉が他人を傷つけることはあっても、決して自分自身を傷つけることはないだろう。
太宰や青年たちとの大きな違いである。
そして、彼はまた決して進歩主義的なるものの幻影に、自らの全存在を賭けることもないに違いない。

太宰は、「斜陽」の中で、「恋と革命」という理想主義を高くかかげて生きるヒロインのかず子に
に、「イエスが、この世の宗教家、道徳家、学者、権威者の偽善をあばき、神の真の愛情というものを少しも躊躇するところなくありのままに人々に告げあらわさんがために、その十二弟子をも諸方に派遣なさろうとするに当って、弟子たちに教え聞かせたお言葉は、私の場合にも全然、無関係でないように思われた」と語らせ、例の聖書の中の一節、「身を殺して霊魂(たましい)をころし得ぬ者どもを懼(おそ)るるな、身と霊魂とをゲヘナにて滅ぼし得る者をおそれよ・・・」と引用している。

この一節に関していえば、太宰や青年たちにおける理想主義とは、「身と霊魂とをゲヘナにて滅ぼし得る」ことをいとわぬという地平にこそ成立する理想主義であり、また伊藤やその他「大人」の「偽」理想主義は究極、霊魂をころして身を殺し得ぬ」地平にしかないものといえよう。







今回はこの辺で。

批判する作家は多くいます。
有名なところでは三島由紀夫や佐藤春夫など。
今回は伊藤整の発表した論より展開してみました。

では次回。







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テーマ : 哲学/倫理学    ジャンル : 学問・文化・芸術
 2020_06_17



好きな作家は多かれど、その中でも一番好きなのは、太宰治氏です。
彼の作品にハマりだしたのは、中学2年生の時。
それまで走れメロスくらいしか知らなかったけど、面白いと思ったら止まらなかった。

そんな太宰氏を彼の人生や考え方、文学論、恋愛あらゆることについて語っていこうと。




太宰の文学は今でも人気が高い。それはどうしてか。
彼の作品が惹きつけるその魅力とは何なのか。
多分、一言で表すならそれは「恋と革命」なのではないか。彼の作品のモチーフとして描かれることが多く、また太宰自身もそれを掲げていたからだ。

「恋と革命」、これは「斜陽」に登場する言葉だ。口に出すとなんとも気恥ずかしく、甘酸っぱい匂いがする。
「太宰の文学は、青年の文学だ」とよく言われる所以はつまりこのモチーフにある。社会という秩序の幻想のうちに自らを無理にアイデンティファイさせて生きているような、自己を保守するに汲々としたいわゆる俗なる「大人」たちの打算的な生き方には、それはもとより無縁の代物だ。まさに青年特有に属する感情、それを彼は常に描こうとしていた。

「斜陽」の中での、「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ」と叫ぶヒロインの生き方を見ると分りやすい。彼女の生き方は反俗の精神に、つまり「大人」たちの世界に対する反逆の精神につらぬかれている。
それは「大人」たちの生き方が。生きるということに値しないものでしかないと彼女には考えられているからである。幸せはそんなところにはないと。
この反俗・反逆の精神は、いわゆる物質的な価値に対する精神的な価値の優位の主張を含んでいる。

ここでいうところの「恋」とは、心の内側から突き動かさんとする感情、内面に真実としてあるものの暗喩でもある。そして、その感情に忠実に生きようとする時、それを拒む俗なる「大人」の世界からのあらゆる障害(道徳や価値観など)と闘い、それを粉砕し続けなければいけない。
それが「革命」を意味している。
太宰がいうところの「革命」は、この「恋」を第一に考えるところにある。
故に彼の考える「革命」とは、世間一般的にいうところの社会革命、つまり共産主義革命のことをさしているわけではないということである。
「大人」の目から見たら無益と思えることに、自らの存在を賭けられることこそ青年の特権といえる。

「恋と革命」に生きるということは、「大人」の世界(社会という秩序)との間に矛盾を生ぜざるをえない。そして、そこには挫折もまたつきものだ。そこに葛藤や苦悩が生まれる。
その果てに、「恋と革命」を捨て、「大人」の世界に入ってゆく。そこには拒否するという選択肢はない。拒否したものには滅亡しかない。
しかし、太宰はその道をいった。「大人」の世界を拒否し、「恋と革命」に生きることを選んだのだ。
そう生きることこそが、自らの生を自らのものとすることであると信じて。
そして、その滅亡に至る過程を自らの作品として描いている。

そうした「恋と革命」に生きることを貫徹せんとする太宰の一途さ、純粋さの中に青年たちが自らの理想像や姿を投影して見ている。だからこそ、「青年の文学」といわれるのだろう。

太宰自身は自閉的で疎外感覚のある性格をしている。だからこそ、世間というのはただ自分に迫ってくる恐るべき世界だと映っていたのだろう。そうした感受が、「恋と革命」という理想主義のために生きようとする一途さや純粋さを根底で支えているのではないか。
つまりは、「恋と革命」のためだけに生き、滅亡する自らへの讃歌のために小説を書いていたのではないだろうか。

人を好きになったら一直線。脇目もふらず、ただ恋に生きる。青年のうちはそれもいい。それを青春という言葉に置き換えることもできるし、純粋ということもできる。
もちろんそれは何のしがらみもない場合を指すが。
昨今でも不倫や二股や倫理観に反する行為が見られがちだが、まさしく太宰はそれに反発して生きようとした「青年」でもあった。
その愚かな行為は恥ずべきものという意識とはまた別に、情熱や純粋にも見え、若者たちの羨望として惹きつけていると捉えることもできるのである。




長くなりましたので、続きは次回に。
太宰の「恋と革命」論。
破滅へと向かってしまう、それも仕方ないことなのだという人生。
私からはそんな風に見えるのです。





テーマ : 考察    ジャンル :
 2020_02_19




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徒然に徒然なるがままに書き綴っています。主に自作の詩、サザン、役所広司さんやドニー・イェンなどなど。他にも興味があることを気の向くままに語っております。

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