ようこそ!冬灯(とうか)のブログへ。徒然に徒然なるがままに書き綴っています。主に自作の詩、サザン、役所広司さんやドニー・イェンなどなど。他にも興味があることを気の向くままに語っております。

前回の続きで、太宰治について自分なりにまとめてみようと思います。






今日は太宰治への誤解と偏見について語ってみようかと思う。

太宰がよくデカダンスの作家、破滅型の作家だと呼ばれている。
あるいは、坂口安吾、織田作之助らとともに「無頼派」の作家として数えられている。

いうまでもなく、「晩年」諸篇から絶筆「グッド・バイ」に至る作品の過程を緩慢な自殺の過程が描かれたものと読むこともできる。
そして、彼の生活はすさんで荒れていたと思われがちでもある。
あるいは、彼の転向体験から、罪の意識を、そんp度重なる情死未遂から、滅びの意思や自己懲罰を、その薬物中毒や過度の飲酒から、デカダンティズムや下降志向を帰納することもできる。

伊藤整は太宰を、「この背徳の人、三回か四回にわたる自殺企画者、嘘の名人、懺悔者、イエスの真似人」などと呼んでいる。

確かに現実にはそう見えたとしても、彼の一生は「恋と革命のために」という、強い反逆精神に裏付けられたものである。
例えば、太宰は昭和13年に発表した「姥捨」の中で、次のように語っている。

「私は、やっぱり歴史的使命ということを考える。自分ひとりの幸福だけでは、生きていけない。
私は、歴史的に、悪役を買おうと思った。ユダの悪が強ければ強いほど、キリストのやさしさの光が増す。私は自身を滅亡する人種だと思っていた。
私の世界観がそう教えたのだ。強烈なアンチテエゼを試みた。
滅亡するものの悪をエムファサイズしてみせればみせるほど、次に生まれる健康の光のばねも、それだけ強くはねかえって来る、それを信じていたのだ。」

太宰はそれを「反立法としての私の役割」であるといっている。
そして、それが「次に生まれる明朗に少しでも役立てば、それで私は死んでもいいと思っていた」とさえ述べている。

なぜ太宰が、「自身を滅亡する人種だ」と思うこととなったのか、あるいは、それを太宰に教えた「私の世界観」とは一体どういうものだったのだろうか。
「私の世界観」に基づき「反立法としての私の役割」というものが、前回記した「身と霊魂とをゲヘナにて滅ぼし得る」ことをいとわぬという地平にこそ成立する、あの「恋と革命のために」という理想主義の実践形態を示すものであることはいうまでもないだろう。

それは、即ち太宰の「無頼派」宣言として読めるのだ。
しかし、同時に、それは視点を変えれば、自らの無頼やデカダンスへの太宰の言い訳、あるいは自己合理化としても読めるかもしれない。

そうして、それは宣言であったのか、それとも単なる言い訳、自己合理化であったのか。
私は前者であったろうと思う。

彼の世界観、思考、それによる生活の基準というべきもの。
家族への思い、妻への愛情。
純粋さ故に理想を求める心情。

理想と現実というのは、時には相容れないことが多々ある。
文学と社会。
家庭と理想。

それらが太宰という作家を誤解と偏見という方向へと導き得てしまったのだろう。

それでも未だに読まれ続けている太宰の文学。
昔も今もその彼の世界観に惹かれる者は多い。
もちろん私を含めて。

酒と麻薬に溺れ、自殺未遂や情死未遂を繰り返すなどの荒れて荒んだ生活を振り返った時、とりわけ「昭和12年3月、水上温泉にて妻の初代と共にカルモチン自殺を企て、未遂。
帰京後、初代と離別」という体験に目を向け、1年後半の沈黙の後、それを「姥捨」という小説として世に問うた時、太宰は自らの存在をその深みからすでに相対化しきっていたはずだ。
そして、この時太宰は、自己の存在の無意味性というものを深いニヒリズムの底で、自覚しきっていただろう。
そうして発せられた言葉でこそあるからと思われるからだ。

引用からも分かるように、太宰はこの時すでに、「自身を滅亡する」側の人間のひとりにこそ数えている。そして、それはまた、自分のような人間は滅亡しなければならないという太宰の意思表白でこそあるのだろう。

なにか罪を犯し、それに対する罪悪感や絶望感が強ければ強いほど、自己にたいしての責任が重く圧し掛かってくる。
抗えない大きな力。
押しつぶされそうになる心。
それでも生きているという現実。
消えない過ちとまたしても繰り返してしまう己の弱さ。

感じれば感じるほどに罪深き思いを膨らみ続ける。
それがやがては自己を滅しなければいけないという自責の念となり、やがては嫌悪感に変わる。
太宰はそんな中で生きていたのだろう。
そして、そんな彼が唯一救いと気持ちを吐露できたものこそが小説であったのだろう。








小説だけ読んだりするだけでは、その作者の本当に言いたいことは見えてこない。
合わせて、その作家の生い立ちや世界観や性格、環境なども知らなければ作品の本当の意味も見えてはこない。

言葉とは心の声そのものだからだ。

今日はこの辺で。

ではまた次回。続きを書きたいと思います。






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2020.09.30 / Top↑
こんにちは。

種無し巨峰が大好きな冬灯です^^


今日は海外ミステリー小説の感想です。
ネタバレあります。






   氷姫(エリカ&パトリック事件簿)

    作者:カミラ・レックバリ


〇あらすじ
海辺の古い邸で凍った美しい女の全裸死体が見つかり、小さな町を震撼させた。
被害者が少女時代の親友でもあった作家エリカは、幼馴染の刑事パトリックと共に捜査に関わることに。
20年以上疎遠だった親友の半生を辿ると、恐るべき素顔が覗く。
画家、漁師、富豪・・・町の複雑な人間模様と風土に封印された衝撃の過去が次々と明らかになり、更に驚愕の事実が明らかに。





スエーデンミステリー。
北欧ミステリーって、その土地柄なのかどこか、じめっとしたホラー的要素が絡んだものが多い。
因習が濃いというか、陰鬱なイメージというか、封鎖された恐ろしさというか。

この物語もいわゆるそんなイメージの漂った作品。
どこにでもいる最低な男達のオンパレード。
そんな男達を共依存で支えてしまう女達。
狭い人間関係の中で暮している人々による小さい世界を壊したくないがための歪んだ選択。
虚栄心にまみれ、自分の世間体をはばかった親達による隠蔽。
そのせいで心に深く傷を負った子供達。ドロドロで救いようもない物語。

そんな中でもエリカとパトリックの恋が絡んだり、語り口調が軽やかだったりして、続きが楽しみな作品。
映画になっても面白いだろうな。
次回作を早く読もうと思う。





2020.09.29 / Top↑


こんにちは。
何度目かのダイエットに挑戦中の冬灯です^^



今日は以前見た映画の感想。





   氷菓 


    監督:安里麻里
    出演:山崎賢人・広瀬アリス・貫地谷しほり・斉藤由貴ほか。
    製作国:日本


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〇あらすじ

何事にも積極的に関わろうとしない「省エネ主義」を信条とする神山高校1年生の折木奉太郎は、姉・供恵からの勧めで古典部に入部する。

しかし、古典部には同じ1年生の千反田えるも「一身上の都合」で入部していた。

奉太郎とは腐れ縁の福部里志も古典部の一員となり、活動目的が不明なまま古典部は復活する。

そして、えるの強烈な好奇心を発端として、奉太郎は日常の中に潜む様々な謎を解き明かしていく。

ある日、奉太郎はえるから助けを求められる。

それは、彼女が元古典部部長の伯父から幼少期に聞かされた、古典部に関わる話を思い出したいというものだった。

奉太郎の幼馴染で里志に好意を持つ伊原摩耶花の入部後、古典部の文集『氷菓』がその手掛かりだと知った奉太郎は、仲間たちと共に、『氷菓』に秘められた33年前の真実に挑むことになる。





米澤穂信の推理小説。
原作は読んでいて、面白かった。
本格的というよりは、、ほっこり系。
高校生たちのクラブ的な感じ。
映画だとどんなものかと思い、見てみました。

主人公のドライで省エネ男子学生、奉太郎役の山崎賢人くん、とても合っていたと思う。
ドライなのに頭が切れ、無機質で無感情なようでいて、人を放っておけない人の良さも持ち合わせている独特な雰囲気の奉太郎をうまく演じていたと思う。
ありすちゃんも可愛くて、ちょっと天然なお嬢様役も良かったし。

本格的なミステリーを望んでいる人には正直物足りなさを感じるだろう。
作者の作風からいってもかなり違うし、彼のあっと思わせるミステリーを思い描いているなら見ない方が裏切られないかも。
正直その点は面白いとは言い難いところがある。
淡々とした映像で、物語に入り込めない感が拭えない。アニメにもなってるらしい。
多分この物語は、アニメ向き。
キャラ自体は個性的で面白いけど。

ストーリー性も物悲しくて、静かなイメージ。
「氷菓」というタイトルの所以が最後に解かるところは、ちょっと切なくなる。
一種の言葉遊び。でもその中には名付けた人の切なくも哀しく、そして誰にもぶつけられない怒りと憤りが詰まっている。
アイスクリーム=私は叫んでいる。

心の叫び。真実はいつだって悲しみのベールに包まれている。
それを思い出してしまったえるは果たしてすっきりしたのか。
事実は総てが良い記憶とは限らない。
けれど、彼女が思い描く叔父のことは今よりも深く、深く、大切な想い出となっただろう。







2020.09.28 / Top↑
こんにちは。

部屋のクーラーが2年前から壊れている冬灯です^^


今日は自作の詩です。
物語のように見れたらいいな。
ちょっと悲しい話・・・






   祇園月夜


ある男と女の物語

祇園精舎の月の下(もと)に男と女
男は深く女を愛し
女は深く男を愛していた
女はある商家の娘だった
男は貧しい浪人

月の揺れる水面のそばで
二人は抱き合い、愛し合い、分かち合った
だがやがて父の知る所により
娘は男と引き離され、ある立派な家に
嫁がされた
女は泣く泣く男に別れを告げ嫁入りした
男は泣く泣く女を諦め途方に暮れた

離れれば離れるだけ
逢えなければ逢えないだけ
二人の想いは赤い炎と化した
格子窓から月を眺めては男を想い
酒の杯に写し出される月を見ては女を想った

空に光る星の林をも打ち砕くほどの
秘めやかな想いに身を焦がし
終(つい)には家を捨て身を捨て
月の出ぬある晩に
二人手を取って駆け出した
離れぬようきつく、きつく手を結び
儚い一時を惜しむかのように慈しみ
悲しみの微笑みを交わし合う

大きな桜の木の下
漸く追いついた女の亭主が
罵詈雑言吐いて大きく刀を振りかぶる
調度真上に翳(かざ)した時
どこに隠れていたか祇園の月が顔を出した

まっすぐに振り下ろされる刀刃(とうじん)の
月の光が射して煌めくのを見た刹那ーーー
男をとっさにかばった女が
ゆっくりと地面に倒れていく
今生に見た景色は自分を斬りつけた
瞬間飛び散った血飛沫が空に舞い
月に映えた美しいまでも哀しい情景

茫然と立ち竦む亭主に向けて
女の血を浴びた男が狂気の如く斬り伏せる
ひざまついて女の頬を優しく
撫でながら男は狂泣(くるいな)きし
自らの刀で己(お)のが首を一突き

哀れや哀れ、
これが祇園に生きる男と女の悲しい宿命(さだめ)

ただ残るは狂気を孕んだ桜の花と
冷たく光る月だけだった





なんだか、すごく悲しい物語詩になってしまいました。
時代背景的には江戸時代でしょうか。

結ばれない宿命のふたり。
引き裂かれたが故の悲劇。
浄瑠璃をイメージして書いた昔の詩です^^




2020.09.27 / Top↑
こんにちは。


部屋のクーラー故障の為、いつも記事は書き溜めているものを予約投稿しております。

皆様のブログへの訪問は携帯から通っていますが、コメントの書き込みや頂いたコメントへのお返事はパソコンから行っております。

部屋からではとてもではないですが、湯だった蒸し風呂のような温度の中書き込むことが流石に困難なため、ネットカフェを利用して行っております。

そのため、お返事が大変遅くなっております。

いつもコメント頂いている皆様に大変申し訳ありませんが今しばらくご容赦お願いしたく存じます。

勝手ながら申し訳ありません。。


もちろん、遅くはなりますが必ずお返事書かせて頂いております。

宜しくお願い致します。


          陳謝




今日は大好きなサザンの曲紹介です。







   ネオ・ブラボー!! (1991)


     作曲・作詞:桑田佳祐

愛の夏来れば皆‘高温万歳‘
病める時代を忘れて
太陽待ち焦がれた‘浪漫人種‘
闇が流れる現代だから
熱い放射で揺れる影より
明日の空は暗い
嘆きの風を肉体に受けて
君と夢を見ていたね
情熱の相対性はNeo
終わり無き世のBlues (Oh,  My  Baby)
永遠の最終系はZero
X同然、 さらばLove
Woo,  You  hit  me.

愛の夏来れば皆‘高温万歳‘
迫る雲に怯えて
眠れない夜の‘浪漫人種‘
夢が壊れた現代だから
地上の果てで また逢える日を
願う心は暗い
無情の雨に濡れた木の葉は
冬を待たずに散るだけ
最愛の進行形はNeo
落ちる涙のBlues (Oh,  My  Baby)
最大の放物線はZero
X同然、 巡るLove
Woo,  You  touch  me.

割れた魔法の鏡は....Woo
冷酷な運命を曲げて見せる

情熱の相対性はNeo
終わり無き世のBlues (Oh,  My  Baby)
永遠の最終系はZero
X同然、 さらばLove
Woo,  You  hit  me.


   

本人ではないけど。




29枚目のシングル。
JNNTBS報道番組筑紫哲也 NEWS23』二代目エンディングソング。
歌詞は当時勃発していた戦争内戦に対する反戦のメッセージが含まれている。


70年代ウエストコーストに通じるサウンドと印象的なメロディ、溌刺としたボーカルとがフィットして、一度聴いたらすぐ口ずさめてしまいそうな、親しみの持てる曲。

桑田さんの詩の天才さを感じる時は、こういう歌詞を書く時だ。
内容もさることながら、巧く言葉を捻り出していると毎度感心するばかり。
私もこういう表現をしたい。
けれど、こればかりは当人が生まれもっている感性であり、才能であるわけだから、いくら私が願っても生み出せない。
綴ることばがなんだかどれも二番煎じじみて感じてしまうのは結局自分に才能が無いという現実を突きつけられている気が常にしている。
と、まあ私の話は置いておいて(笑)

桑田さんの歌詞の素晴らしさに拍手を贈りたい。
曲も馴染みやすいもので、確かに口ずさみしやすいが、やはり特出すべきは、歌詞にある。
もしかしたら主題歌がニュースであったというのも関係しているのかもしれない。
曲が出来てから採用されたのか、タイアップ企画だったのかは分からないけど。

反戦歌はもっともっと増えるべきだと思う。






2020.09.26 / Top↑
禅語の中から素敵な言葉を選んで載せたいと思います。
禅はただ座禅するだけじゃない。素晴らしい教えが数多くあります。






   青山元不動(せいざんもとふどう)
   白雲自去来(はくうんおのずからきょらいす)


〇意味
どっしりと不動の青い山は本当の自分。
妬みや怒りは通り過ぎていくだけの白い雲。


毎日忙しい中、イライラすることもありますよね。
そんな時、よく「私ってこんな怒りぽかったっけ? 嫌になる」と凹んだりします。

でも、禅の教えではこんな言葉があるんです。

どっしりした山のような本当の自分。

確かに心に余裕がある時は人に新設になれたり、困った人の助けになりたいと感じたりします。
イラついたり、怒ったりする自分もいるけれど、確かにどっしりした自分も存在している。

山、つまり本当の自分とは、仏さまの心ーー仏性(ぶっしょう)のこと。
ちょっとしたことにムッとしたり、つい見栄を張ってみたり、といった怒りや欲望、妬みはやってきたと思ったら去っていく白雲。
いっとき山は雲に隠れるけど、雲はいつの間にか去っていき、再び山が姿を現す。

心の中で雲が去って姿を現した青い山をイメージすること。
そうすれば、少しは心がスーっとして、気持ちにゆとりが生まれる。その時が本来の自分なのだと思うこと。それが大事なんですね。

まあ、カーッと頭に血が上っている時は中々そんな風には思えないけど(笑)
それでも、心を正常に戻すための呪文は誰でも必要だと思います。

確かに怒りやイライラは時間が経てば静まったり忘れたりするもの。
その場の感情だけで行動したら失敗もする。
ちょっと一歩引いて、冷静になることをすれば、自分も傷つかないで済む。

自分はどっしりした山なんだ。腹の立ったことはすぐに流れていく雲なんだ。

そんな言葉を心に描ける人間で在り続けたいものです。





2020.09.25 / Top↑
今日は読書感想の記事です。

学生時代に読んだ本。
そのころの記録です。






   風立ちぬ


     作者:堀辰雄


〇あらすじ
序曲
秋近い夏、出会ったばかりの「私」とお前(節子)は、白樺の木蔭で画架に立てかけているお前の描きかけの絵のそば、2人で休んでいた。
そのとき不意に風が立った。「風立ちぬ、いざ生きめやも」。
ふと私の口を衝いて出たそんな詩句を、私はお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返していた。それから2、3日後、お前は迎えに来た父親と帰京した。
約2年後の3月、私は婚約したばかりの節子の家を訪ねた。
節子の結核は重くなっている。彼女の父親が私に、彼女をサナトリウムへ転地療養する相談をし、その院長と知り合いで同じ病を持つ私が付き添って行くことになった。
4月のある日の午後、2人で散歩中、節子は、「私、なんだか急に生きたくなったのね……」と言い、それから小声で「あなたのお蔭で……」と言い足した。
私と節子がはじめて出会った夏はもう2年前で、あのころ私がなんということもなしに口ずさんでいた「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句が再び、私たちに蘇ってきたほどの切なく愉しい日々であった。
上京した院長の診断でサナトリウムでの療養は1、2年間という長い見通しとなった。
節子の病状があまりよくないことを私は院長から告げられた。
4月下旬、私と節子はF高原への汽車に乗った。
風立ちぬ
節子は2階の病室に入院。私は付添人用の側室に泊まり共同生活をすることになった。
院長から節子のレントゲンを見せられ、病院中でも2番目くらいに重症だと言われた。
ある夕暮れ、私は病室の窓から素晴らしい景色を見ていて節子に問われた言葉から、風景がこれほど美しく見えるのは、私の目を通して節子の魂が見ているからなのだと、私は悟った。
もう明日のない、死んでゆく者の目から眺めた景色だけが本当に美しいと思えるのだった。
9月、病院中一番重症の17号室の患者が死に、引き続いて1週間後に、神経衰弱だった患者が裏の林の栗の木で縊死した。
17号室の患者の次は節子かと恐怖と不安を感じていた私は、何も順番が決まっているわけでもないと、ほっとしたりした。
節子の父親が見舞いに2泊した後、彼女は無理に元気にふるまった疲れからか病態が重くなり危機があったが、何とか峠が去り回復した。
私は節子に彼女のことを小説に書こうと思っていることを告げた。
「おれ達がこうしてお互いに与え合っている幸福、…皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ、おれ達だけのものを形に置き換えたい」という私に、節子も同意してくれた。
1935年の10月ごろから私は午後、サナトリウムから少し離れたところで物語の構想を考え、夕暮れに節子の病室に戻る生活となった。
その物語の夢想はもう結末が決まっているようで恐怖と羞恥に私は襲われた。
2人のこのサナトリウムの生活が自分だけの気まぐれや満足のような思いがあり、節子に問うてみたりした。彼女は、「こんなに満足しているのが、あなたにはおわかりにならないの?」と言い、家に帰りたいと思ったこともなく、私との2人の時間に満足していると答えてくれた。
感動でいっぱいになった私は節子との貴重な日々を日記に綴った。
私の帰りを病院の裏の林で節子は待っていてくれることもあった。
やがて冬になり、12月5日、節子は、山肌に父親の幻影を見た。
私が、「お前、家へ帰りたいのだろう?」と問うと、気弱そうに、「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」と、節子は小さなかすれ声で言った。
死のかげの谷
1936年12月1日、3年ぶりに節子と出会った村に私は来た。
そして雪が降る山小屋で去年のお前のことを追想する。
ある教会へ行った後、前から注文しておいたリルケの「鎮魂曲(レクイエム)」がやっと届いた。私が今こんなふうに生きていられるのも、お前の無償の愛に支えられ助けられているのだと私は気づいた。
私はベランダに出て風の音に耳を傾け立ち続けた。
風のため枯れきった木の枝と枝が触れ合っている。
私の足もとでも風の余りらしいものが、2、3つの落葉を他の落葉の上にさらさら音を立てながら移している。





堀辰雄の中編小説。
作者本人の実体験をもとに執筆された代表的作品で、名作ともいわれている。
美しい自然に囲まれた高原の風景の中で、重い病に冒されている婚約者に付き添う「私」が、やがて来る愛する者の死を覚悟し、それを見つめながら2人の限られた日々を「生」を強く意識して共に生きる物語。
死者の目を通じて、より一層美しく映える景色を背景に、死と生の意味を問いながら、時間を超越した生と幸福感が確立してゆく過程を描いた作品。

情景描写は素晴らしいと思う。まるで詩の世界観。
美しくもあり、透明感もあり、情緒的でもある。
が、私はどうもむず痒さを感じてしまい、好きになれない。
綺麗すぎるというか、悲愴であるはずなのに感傷的でないというか、死がテーマであるはずなのに淡く、薄い印象を持ってしまい、一言でいうなら甘い雰囲気が漂っていて、その世界観に浸ることができなかったのだ。

堀文学の特徴は、人物心情や物語の展開を情景で描写するという比喩表現の緻密さにある。
特に自然描写は美しい。
天候と四季の変化、そこから生み出される風景の移ろいに人物心情を表現して物語が進むという構成は素晴らしいと思う。
静かで透明感があり、寂とした雰囲気と趣がある作品。
死に向かっていくものと、それを支えながら二人の絆を深めようと生きるものの愛の物語。
堀自身の経験の元に書かれているだけあって、痛ましいほどの二人の様子が描かれていて、作者の心情が伝わってくる様は切なさを感じるが、美しい文章のせいか、想い出というイメージが濃い。

この作品は確かに名作なのかもしれない。
けれど、天邪鬼な私は一度でいいかなあと・・・。
お腹いっぱいだ。





2020.09.24 / Top↑
こんにちは。

炭酸水が好きで、ウィルキンソンのオレンジフレーバーが一番好きな冬灯です^^


今日は昔書いた詩。






   夕かげ


やわらかな空気の中
淡いいとしさが溢れる
心に灯をともして
そのすがすがしいまでの
あたたかさにくちびるが揺れる

冬のいっしゅんの暮れ往くかげの中
やさしくあなたは笑う
まるですべてを知ってるかのように
どこまでもやさしく・・・やさしく

この、淡い光の中
あなたは逝ってしまうんだね
なんて美しい風景だろう
まるで一枚の絵画のように
はかない微笑をやどしたまま
あなたは逝くーーー

夕かげよ、夕かげよ
ああ
どうかこのままで





こんな風に静かに、緩やかに死を迎えられたらと思う。
もしくは、見送れたらと願ってしまう。

逝く方も見送る方も静かな覚悟と優しさをもって。
現実は中々こんな風にはいかないことが多いけれど。




2020.09.23 / Top↑
今日は万葉集の記事です。

5首目の歌とその反歌である6首目のセットで書きたいと思います。






   讃岐国安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)しし時、軍王(いくさのおほきみ)の山を
   見て作る歌


霞立つ  長き春日(はるひ)の  暮れにける  わづきも知らず  むら肝の  心を痛み
鵼子鳥(ぬえことり)  うら嘆(なけ)をれば  玉だすき  かけのよろしく  遠つ神
わが大王の  行幸(いでまし)の  山越す風の  ひとりをる  わが衣手(ころもで)に
朝夕(あさよひ)に  かへらひぬれば  ますらをと  思へるわれも  草枕  旅にしあれば
思ひやる  たづきを知らに  網の浦の  海(あま)をとめらが  焼く塩の  思ひそ焼くる
わがしたごころ



(意味)
讃岐国安益郡(香川県綾歌郡)に舒明天皇が行幸なさった時に、軍王が山を見て作った歌

かすみがかかる長い春の日が、いつ暮れたのかはっきり分からないほど心が痛むので、ため息をついていると、言葉だけでも嬉しく、わが天皇が行幸なさっている山を越えて吹く風が、ひとりでいる私の袖に、朝晩に吹き返り吹き返りするので、家に帰ることが思われて、立派な男子だと思っている私も、旅の道中であるので、憂いをはらす方法も分からないままに、網の浦の海人の娘たちが焼く塩ではないが、思い焦がれることだ。
私の心の底は。


(作者)
軍王~飛鳥時代の歌人。百済系王族の渡来人との説あり。



(人物)
舒明天皇~34代天皇。




この歌は、舒明天皇が讃岐国安益郡に行幸された時に、従駕した軍王が詠んだとされる長歌。
実際には舒明天皇が讃岐国安益郡に行幸されたとする記録はないが、この歌につけられた反歌の左注によると、〔山上憶良大夫(やまのうへのおくらのめへつきみ)の類聚歌林(るいじうかりん)に曰く「記に曰く『天皇十一年己亥(きがい)の冬十二月己巳(きし)の朔(つきたち)の壬午(じんご)、伊予の温湯(ゆ)の宮に幸(いでま)す云々』といへり。」〕とあるので、このとき道後温泉に行幸した帰りに讃岐国安益郡にある国府に立ち寄ったのではないかと思われる。

そんな天皇の行幸に従った軍王が、山を越えて吹き来る風に心をかき乱される不安を鎮めようとして祈りの歌を詠っている。
「丈夫(立派な男子)と思っていた自分が憂いを晴らす術も知らずに、海の海女たちが焼く塩のように、(家に残した妻を思って)心が焼けています」と、家に残してきた妻を思うことでその心の不安を鎮めようとしている。
(この長歌自体には「妻」とは詠われていないが、長歌の内容を集約した次の反歌で家に残してきた妻に心を寄せることで不安を抑えようとしていることがはっきりと詠われているのが分かる。)

この時代の旅する者は独り寝の寂しさに心が散って消えてしまわないようにと、家に残してきた妻を一心に思って歌を詠み、その心の不安や動揺を鎮めようとしている歌が多い。
同時に、家にいる妻も、旅先の夫の無事を祈って、旅先の土地や道々の神や精霊に夫を守ってくれるようにとの祈りの歌を詠んでいる。
万葉集に出てくるこれらの歌は、妻と夫がお互いを思う祈りの歌を詠むことで家を守ろうとした夫婦の共同作業でもあったのかもしれない。




ではその返歌。


     返歌

山越しの風を時じみ  寝(ぬ)る夜おちず  家なる妹(いも)を  かけて偲ひつ



(意味)
山越しの風が時ならず吹くので、寝る夜ごとに、ふるさとの家にいる妻を心に浮かべて思い慕うことだ。



(作者)
同じく軍王。



反歌には長歌の内容を凝縮して唱えやすくした呪文のような性質をもつものが多い。
この歌もまた長歌の内容をそのまま縮小したように妻を思うことで旅先の夜の不安な心を鎮めようとした鎮魂の一首となっている。

いまでも山の中で一夜を過ごすのは不安なこと。
当時の軍王たちの時代には道々の精霊や土地の神々の存在がもっと身近なものであり、それらは自身を護ってくれもすれば逆に悪霊として災いをもたらすこともあると信じられていた。
そんな人間の力の及ばない大きな力に対して、歌を通して家にいる妻と心と心を結びつけておくことで心(魂)を現世に留めておこうとする願いがこめられているように感じる。

現代では携帯電話はほとんどの人が持っているし、パソコンだってあるからどんなに離れていようともお互いの存在の有無はすぐ知れるけど、当時は文くらいしか相手に自分のことを知らしめる手段がなかったことを思うと、不安や心配は私たちが思う以上に大きかったのでしょうね。




今回は返歌を合せて2首の紹介でした。
ではまた次回。






2020.09.22 / Top↑

こんにちは。



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勝手ながら申し訳ありません。。


もちろん、遅くはなりますが必ずお返事書かせて頂いております。

宜しくお願い致します。


          陳謝




今日は邦画の紹介です。








   赤と白の捜査ファイル



     監督:佐藤東弥

     出演:藤原竜也・岡田将生・志田未来ほか。

     製作国:日本




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◎あらすじ

百合根の異動を4日後に控えたある日、凶悪犯罪者を乗せた護送車が車と衝突する事故が発生する。

脱走した犯罪者は即座に再逮捕され、解決したかに見えたが、運転手の証言と監視カメラの映像から、その交差点は全方向に青信号が点灯していたことが判明する。

容疑者として鏑木徹が挙げられ、一通りの推理を説いた赤城は池田に鏑木に関するファイルを与えるが、その住所は偽物であり、本来の住所に向かった捜査員たちが見たのは、炎上した鏑木宅から出てくる赤城と、鏑木の焼死体だった。

赤城を池田と松戸が取り調べると、警察のネットワークにハッキングした鏑木が汚職を暴いたために殺されたと証言される。

これらの状況と、STから赤城の汚職を暴いたファイルが提示され、本人に促される形で赤城を逮捕する。STは解散に追い込まれ、真意を確かめたい百合根は池田を殴ることで逮捕されて赤城の隣に留置されるも、その真意を明かさないまま赤城が脱走してしまう。

松戸を中心として本事件の捜査本部が立ち上げられ、釈放された百合根をはじめ、STも吸収されることとなる。ここに、逃走する赤城と、赤城を追う捜査本部との戦いがはじまった。





実はテレビドラマの時、1、2回しか見ていなかったのに映画版を借りてきてしまった冬灯です。

まあ、なんとか思い出しながら見ました。


天才的頭脳の持ち主・赤城が引きこもりだったとか、その仲間たちも有能な頭脳や特殊な能力がある故に一風変わった性格者の集まりだったり。

ああ。そういえばこんな曲者集団の話だったっけ。そう思いながら見た。


赤城と百合根の掛け合いはテンポもよく、性格もよく表れていて楽しい。

子役の女の子の演技も素晴らしく、小生意気で人を扱うのが上手く、口達者で、赤城との掛け合いも面白かった。

相変わらず、藤原竜也の演技は安定の見やすさ。

ただ、映画にするほどの内容ではなかった気がするのが残念。

内容的にもう少し凝ったものだったなら。

少し陳腐に思えちゃうのは、やっぱり元がドラマだからなのか、質なのか。

さらりと見る映画としてはいいのかもしれない。





2020.09.21 / Top↑